e文庫 アダルトウルフガイ・シリーズ



狼よ、故郷を見よ   狼よ、故郷を見よ
著者:平井和正

イラスト:泉谷あゆみ
定価500円
TTZ版:481KB、PDF版:893KB

●目次
地底の狼男(ウルフ・ガイ)
狼(ウルフ)よ、故郷を見よ

早川SF文庫版あとがき
祥伝社NON NOVEL版あとがき
ハルキ文庫版あとがき


●立ち読み
地底の狼男(ウルフガイ)


     1

 寒かった。べらぼうな寒さだった。なにしろ雪の降り積った十二月の北海道、それも秘境知床半島のまっただ中だから、寒くてもしかたがない。
 おれの毛深い身体は、寒さで縮みあがり、全身薄紫色になっていた。この厳寒期のさなかに、おれはパンツ一枚の裸なのである。なにも好きこのんでヌーディストの真似をしているわけじゃなかった。山岳信仰の徒のくだらない荒行を気取っているわけでもない。
 スポーツシャツ、上衣、ズボン、靴は防水袋の中に大事にしまいこんである。この五日間、おれは山の中をうろついていた。寝袋もなしでごろ寝し、野生の王国を百キロ近く移動しているのだから、服がだいなしになるのは目に見えている。いずれ人里におりたとき、よれよれの乞食よりもみすぼらしい姿を人目にさらしたくない。――これでも、おれは人一倍スタイリストで、身だしなみには気を遣っているのである。
 理由はまだほかにもある。いまのおれは、超強力な猟銃を持ったハンターどもにつけ狙われてい、いつ飛んでくる銃弾でズタボロに射ちまくられるかわからないからだ。着弾のショックで衣服はズタズタに裂け、全身から海藻をぶらさげた半魚人みたいになってしまう。おれは気位の高い狼男だから、そんなおのが醜態を人目にさらすのは耐えられないのだ。
 とにかく、むちゃくちゃに寒い。だらしなく鼻水が垂れ、歯は勝手にカチャカチャ鳴り、身体は生れたての仔狼みたいに頼りなくブルブル震えている。標準より多少毛深くても、この寒気に対しては気休めにもならない。
 しかし北極圏に棲む狼たちは、零下五〇度の氷嵐(ブリザード)のさなかでも平気で吹きさらしの雪原に眠るそうだから、都会育ちのおれはおそろしい柔弱者と馬鹿にされるだろう。
 もっともいまのおれは人間そのものだ。新月時分のおれは、望んでも深い毛皮に包まれた狼の体型はとれない。ともかく狼人間のおれだから、北海道の厳寒の山中にパンツ一枚で頑張っていられるのだ。ぶざまと笑うなら、諸君も一度試してみるがいいのだ。冷凍の鮪の気分がよくわかるだろう。
 タバコも切れてしまっているので、なおさらみじめな気分だった。これで三日間もろくな食い物を口に入れていない。山にこもるなら防寒具野外キャンプ用品一式とともに、たっぷり食料を用意すべきだったが、その余裕もなく山に逃げこまねばならなかったのだ。追手がかかっているのは承知の上だったし、またそれでこそ、勝手を知らぬ冬の北海道くんだりまで落ちのびてきたのだが、いかにも時期が悪かった。
 新月――夜空に月の出ていない時分のおれは、活力(ヴァイタリティ)が極度に低下して、人間並みにひ弱になってしまう。やつらに、そこをつけこまれて襲いかかられては、さすがのおれも逃げの一手である。――五日前、おれは追手の接近に、尻尾に火がついたようにあわてて、根室海峡へ飛びこむかわりに、標津から羆の横行する山中へ逃げこんだのだ。
 まさかそこまで追ってこないと楽観したのが、おれの大誤算だった。やつらはおれの行動をちゃんと見こして、羆狩りの重装備をととのえたハンターどもを繰りだしてきたのである。
 標津から知床へ続く五日間というもの、おれは手製のカンジキだけをつけて、雪の山中を逃げのびてきた。おそろしく執念深いハンターどもに追いまくられる羆みたいに……
 五日目になると、おれの辛抱も尽きた。腹を減らして気が立ったせいもあるかもしれないが、執拗に追跡してくるハンターどもを迎え撃つ決心を固めたのだった。
 おれはエゾ松の原生林にもぐりこみ、雪の中にうずくまって反撃の時を待ちかまえていた。パンツ一枚の裸でも、ちゃんと逆襲ぐらいはやってのけられるのだ。
 取りこみ中のことでもあるし、手短かに自己紹介しておく。
 おれの名は犬神明といって、一匹狼のルポライターだ。年齢は三〇代前半、飢餓状態にあるジャン・ポール・ベルモンドを連想させる特異な美貌の持主といわれる。吹けば飛ぶような痩せっぽちかもしれないが、おれはレッキとした狼男なのである。ただ単に狼の特性を備えているだけでなしに、常人にはない超能力(イーエスピー)とか霊能とか呼ばれるたぐいのキチガイじみた特異能力の持主だ。とくに顕著なのは、おれが時々不死身になることと、ひっきりなしにトラブルに巻きこまれる能力だ。後者の場合、そんな超能力があるものかと不信を買いそうであるが、世間には幸運と不運が偏在するもので、それらは個々人の特異能力によるものといってもいいのである。――幸運児と呼ばれる人間は、憑きを呼びこむ能力に恵まれているのだし、それが負(マイナス)のかたちになると、災厄続きの悲しむべき一生をおくらなければならない。この悪運憑きについては、カール・メニンジャーという心理学者がその著書に、例証をあげているほどだ。
 おれの場合は、憑いていないというのと意味あいがちがう。間断なくトラブルに見舞われるのだが、またトラブルはおれのビジネスでもあったからだ。
 いま、おれを追いかけているのは、トラブルには慣れっこのおれにとってすらも、最大級のそれに属した。
 半年ばかり前、おれはCIAと事を構える破目となった。もちろんCIAとは米合衆国中央情報局――世界最大の国家諜報機関である。その暗黒・凶悪な諜報組織の巨人CIAが、なぜ血眼蚤取眼でたかが一介のルポライター風情のおれを追いかけているのか。簡単にいえば、おれのせいで在日米軍基地内の秘密施設、生物化学兵器研究所が丸焼けになってしまったからである。ついでに、狼男の素性が露見し、連中はおれを捕えメリーランド州フォートデリックにあるCBW研究所の実験動物の檻におれを送りこむべく、〈狼狩り〉に狂奔しはじめたというわけだった。狼男は、ネス湖の怪獣ヒマラヤの雪男をしのぐ、珍重すべき実験動物であるらしい。
 狼男捕獲のため手のこんだ罠がしかけられ、おれは八王子地下に生き埋めにされたのを手はじめとして、キチガイ沙汰の追及にさらされてきた。悪名高いCIAのことだから、やり口は徹底的に汚ない。
 たとえば――街を歩けば影なき狙撃者が数キロもはなれた場所から、超望遠射撃の弾丸をぶちこんでくるし、水道工事人夫は足許のマンホールから手榴弾をころがす始末だ。
 タクシー運転手はやにわに拳銃をぶっぱなし、レストランのボーイは料理に一服盛り、行きずりに拾った女の子はアイスピックをおれの頭に突きたてようとする。救急車にかつぎこまれたって信用ならない。看護人がピアノ線で首を絞めにかかるからだ。
 こうひどい手口で狙われると、行きあうすべての人間が、CIA特務工作員に見えてくる。いかに脳天気な狼男といえども、刺激があって愉快だなどといっていられない。
 とにかく、不死身の狼男だからこそ、悪辣な罠の数々を咬み切って逃走することができたのだ。普通人だったら、名にしおうCIAのテロルに半日も保たなかったろう。
 ご存知の向きもあるかもしれないが、狼男の生理は、月という天体の運行に支配されている。普通人だってバイオリズムに生理・感情を支配されるが、狼男の場合はそれがものすごく極端だ。
 満月時のほぼ三日間、おれの体力は黄金期に達し、文字通り不死身になってしまう。射たれようが斬りさいなまれようが、おれは死なないのである。細胞組織の再生力がバクテリアの繁殖率並みに、飛躍的増大を遂げることによるらしい。煮ても焼いても食えないということだ。
 月が満ちるに従って、おれの生命力は増大し、満月で絶頂に達し、月が欠けだすと減衰に向う。新月になると、ただの人間と変らなくなる。つまり満月――新月――満月の二九日半の期間、不死身の超人と普通人の間を往復するのである。
 この狼人間の生理につけこまれて、新月時分に襲撃されると、いかに強健無比のおれもからきしだらしなくなってしまう。石ころをぶつけられただけで敢えなく気絶、ということだってありうるのだ。情ない話だが、それが狼男の生理なのだからしかたがない。

     2

 顎にまで垂れてきた水っ洟をすすりあげながら、おれは反撃の手順をさらに検討した。相手はすくなくとも三人はいる。いずれも巨大な強装弾を発射するマグナム・ライフルで武装していることはわかりきっている。知床半島は、羆王国として有名だ。並みの猟銃では、生命力の強い羆に通用しないから、うっかり出食わすと、たちまち惨事が起きる。ショックにきわめて脆い神経系の発達した人類と異なり、野生動物は信じられないくらいタフなのだ。頭蓋骨を吹きとばされても、脳漿をまきちらしながら、快足をとばして逃げ去ってしまう。いまのおれだったら、あの世へ直行である。
 追手のうちに、プロのハンターがいることは確実だった。それも野獣だけでなく、人狩りにも熟練しているプロだ。おれの狡智を尽した逃走トリックにだまされることなく、的確に追跡を続け、いま肉薄してくる手練にはなみなみならぬ力量がうかがわれた。射撃も名人級にちがいない。四、五百メートルの距離から楽々と必中弾を撃ちこんでくるだろう。プロの射撃屋なら当然のことだ。
 おれは、前日あたりから逃走の速度を落し、体力をすっかり消費しきってダウン寸前という印象を追手にあたえようと努めていた。わざと足跡を乱し、やたらに小休止をとった痕跡を残したのだ。おれがへばりきって精魂尽きはてたと思わせることが必要だった。
 連中に、おれを追いつめたと確信させ、身近にひきつけねばならない。おれを無傷で生捕りにしようと欲を出せば、判断に狂いが生じるだろう。それに奴らは、おれが寸鉄もおびないことを知っていた。
 まったくの話、素手で冬の北海道の山奥にもぐりこむなど、信じがたい無謀なのだ。危険な野犬の群が餓えきっているし、人類の苛烈な圧迫を頑強に耐えぬいている羆たちが、冬ごもりしそこねて徘徊するケースも最近では多いらしい。こういった「穴持たず」は特に凶暴で、里に押しかけて人家を襲い、牛馬を食いちらし、人間までとって食う。こうやって人肉の味をおぼえた「人食い」は、悪魔的な狡猾さと凶悪さを発揮して手に負えなくなる。
 北海道では一九六九年から十年計画で、約三千頭の羆を駆除しようと、一頭につき五千円以上の奨励金を出して無制限に射たせているが、羆の数はいっこうに減少しないようだ。明治年代に根絶しにされたえぞ狼と異り、単独生活を営み大量捕獲のきかない羆は、人類の迫害と闘う野生動物のチャンピオンだ。開拓が山奥に及んでも、農作物を食うことによってあくまでも抵抗する。農作物の被害は、多い年で二千万円を越すという。だが、羆を懸賞首の無頼漢に仕立てあげたのは、自然環境をとめどもなく破壊し続ける人間自身なのだ。所詮彼ら羆たちがいかに抵抗しても、他の野生動物と同様に虐殺され、滅び去っていく運命は免れないだろう……狩猟スポーツの美名のもとに生き物はなんでも射たずにいられないトリガーハピーのハンターの大群が、いずれすべての追いつめられた野生の動物を地上から消してしまうのだ。
 
 おれがその「穴持たず」に遭遇したのは二日前のことだった。雪の上にきざまれたえぞ鹿の足跡とはまるで違う、恐ろしく巨大な羆の足跡を見つけたときは、さすがに肝が冷える思いがした。真新しい強烈な悪臭を放つ糞が、でかい羆が近くにいることをおれに教えたからだ。こんな大物に襲われたら、新月の狼男はかたなしだと思った。物凄い張り手の一発で脳味噌を叩きだされてしまう。冬眠しそこねた羆は苛立ってい、気が荒いと聞いていた。
 おれが退散しようと方向転換した、羆の足跡とは逆の風下に、「穴持たず」はひそんでいたのである。白樺とやちはぎの茂みの中から、そいつはやにわに躍り出てきた。
 どえらい代物だった。背丈はおれの倍もあり、体重は十倍、五百キロを超すとてつもない大物だった。金色の毛が混っているのは、年期の入った牡熊の証しだ。むきだされた黄色い牙は、ライオンみたいに巨大だ。長い彎曲した力強い爪のうわった前脚のボリュームは物凄い。
 巨大な頭部に比して、小さい丸い目は激怒に燃えて、緑色のネオンみたいに光っていた。おれはその場に凍りついた。まったく肝を潰してしまったのだ。逃走しようという衝動も起きなかった。もし、おれが反射的に動けば、すかさず殺到してきたにちがいない。
 羆の方もあっけにとられたのかもしれなかった。たぶん、パンツ一枚の裸の人間など見たこともなかったのだろう。勝手がちがったのか、攻撃を思いとどまった。仁王立ちになったまま、当惑した目つきをしていた。
 たがいに身じろぎもしない対峙が続いた。おれは羆の目を直視しなかった。瞬きもせず見ひらいた目で相手の目を見つめるのは、野生動物においては、猛烈な悪意を意味するのである。――おまえをやっつけて、はらわたを食いちらしてやるぞ、という意味のあからさまな表現なのだ。
 だから、彼らは無関心を装い、たがいに視線を掠めるだけにとどめる。
 羆のまるい目から、殺気に狂った光が薄れていくのがわかった。しきりに大きな鼻をぴくつかせている。憎むべき銃器と刃物の匂いがしないので、攻撃意欲が薄らいだらしい。だが、体毛は依然として逆立ち、耳はぴったりと頭部にはりついたままだ。
 見れば見るほどでかい顔だった。大型トラックのタイヤくらい盤広だ。それがわずかに首をかしげて、横眼を遣っているさまは、狼男のおれでさえぞっとするほどだった。
 怒りは消えたにしても、今度はおれのことを、うまい具合に懐にころげこんできた食物ではあるまいかと検討しているらしい。「穴持たず」は完全な肉食性で、えぞ鹿などを獲物にしているのだ。
 そこで、おれはできるだけ穏和な口調で喋りだした。このおれが手頃な獲物でないといってきかせなければならない。
――いいかい、「穴持たず」、とおれはいった。
「お宅が腹を減らしている事情はよくわかるが、おれはお宅の胃袋におとなしく収るほど柔らかい代物じゃないんだ。だいたい消化によくない。狼男を食ってみようなんて不心得は起さないほうがいい……いまはすんなりと咬みくだかれるにしてもだ、満月の夜になったら、お宅の腹を内側から食い破って出てくるかもしれんのだぜ。そんなゲテ物食いはよせとおれは忠告するね、狼男を食った熊なんて、それこそ赤っ恥をかくんじゃないかと思うが、どうだ?
 それに、おれがおとなしくお宅に、頭からガリガリ齧られると思ったら大間違いだ」
 おれは心もち凄みをきかせた。
「おれはいささか腕に覚えがある。由緒正しい狼男で、狼の大頭目の資格を持っているんだぜ。嘘だと思ったら、どこの狼の群でもいいから、国際電話をかけて問いあわしてみろ。悪漢ウルフといえば、すこしばかり名が通ってるんだから」
「穴持たず」は了解した。ちょっぴり尊敬の目つきになったようだ。まさかと思うかもしれないが、たいていの野生動物は人語をよく理解するのである。出会いがしらに熊とぶつかったときは、一度試してみることをお勧めする。
 言葉巧みに、おれに説得された羆は、前脚をおろして四這いになった。くるりと尻を向けると、長い毛に包まれた小山のような圧倒的な巨躯を揺って去って行った……
 おれがとんでもない奸計を思いついたのは、動悸が鎮まり人心地がついたあとだった。執拗な追跡者を振りきるかわりに、すてきな罠をかけてやることにしたのだ。
 おれは、餌を求めて移動する「穴持たず」の足跡をたどりはじめた。自分のカンジキで羆の足跡を丹念に踏み消しながら……



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