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エイトマンヘの鎮魂歌 平井和正 エイトマンのことを書きたいと思う。エイトマンといえば、かつて一世を風靡しながら、ある関係者の拳銃不法所持などというスキャンダラスな事件によって、マンガ史から消去された作品である。なにしろ天下の大新聞に〈エイトマン逮捕さる!〉とばかり、かなり凶悪な煽情主義の好餌にされてしまったのだからたまらない。事件にはまったく無関係の原作者の僕まで巻添えをくって謹慎を強制される破目に陥ってしまった。カフカの主人公ならずとも、「不条理だ!」と、叫びたくなったものである。 しかし、いまさらその怨みごとをならべようという気はない。作家にとって怨恨はよき肥料となるし、いずれもとをとるつもりだからである。 では、なぜエイトマンのことなぞ書こうとするのか? いささか屈折した感慨を持ちつつ、SFマガジン一九六九年二月号覆面座談会から引用することを、諸関係者の方々にお許し願いたい。 C 平井和正のSFは自己燃焼する情念のドラマだと、いつか石川喬司が書いていたけれど、長編になると、自己燃焼だけじゃだめだ。対立する他者がいる。対立する他者との間に極端な限界状況ができて主人公が追いつめられ、そこにドラマが出来ていくんだけどこの作品(メガロポリスの虎)では、そういう他者の設定がない。 なんという慧眼であろう、眼光紙背を徹するとはまさにこのことである、などという大仰なせりふはやめることにしても、たしかにこの指摘はあたっているように思う。 なぜならば、僕はこの連作長編において、マンガのフレームと商業主義的センセーショナリズムから解放されたエイトマンの実像をえがきたかったからである。(誤解を恐れずに書いたが、かなり不逞な発言であるし、気を悪くされると同時に失笑される向きもあろうと思う。しかしながら、通俗きわまりないセンセーショナリズムに首までつかったマンガ原作者の切ない願望と解されたい) あまりカッコよくない、孤独な、超人だけの知る底知れぬ疲労にむしばまれた、スーパー・ヒーローの恐怖や悲苦というネガティヴな魂の暗部を書きしるしておきたかったのである。 恥のかきついでに、エイトマンが派手に活躍していた当時の、僕のメモを公開してしまおう。 目をさますと、すでに色濃く暮色がただよっている。いくらか鬱病気味で歯をみがく。夜なべ仕事をすると、いつも起床時間が夕方になってしまう。人類の埒外にはみだしたような気分だ。(中略)それでも遅まきながらルーティンな一日がはじまる。007と同じことなのだ。強力かつ凶悪なる敵と美女と愛用のベレッタ拳銃がボンド氏の定食だが、ぼくの定食はファンレターと編集者の原稿はまだかという電話と、使いふるしの万年筆だ。(中略)冷えきった牛乳は前歯の虫歯によくしみた。おかげで、エイトマンの苦境を切りぬける方法を思いついた。恐るべき超能力を持つ怪人物にやりこめられて、手も足もでないところだったのだ。愛読者の子どもたちも胸を痛めるだろうが、作者のぼくにはさらに切実な問題だ。くそくらえセンセーショナリズム! むりやりにヒキを(註・次回へつなげるための派手なクライマックス)でっちあげるから、こんなことになるのだ。作者自身思いがけぬとほうもない窮地に追いこまれたヒーローをどうしたらいいのだ? どうあがいても救済不能、作者にとってすらも戦慄的な事態なのだ。いっそのこと人事を尽したから、あとは天命を待つだけだと編集者にいおうか。 そんなわけで、僕はサイボーグを主人公とする、この連作長編を書こうと決心したのである。自分の原点を確かめるためにも書こうと思った。TVのフレーム、雑誌マンガのコマからは注意深く払拭されていた、その暗い情念を燃焼させるべく努めた。 エイトマン・ドタバタ、まさにしかりである。僕は、高級な芸術的SFを書こうと思ったわけではない。(書きたくもないし、また書けもしないだろうが) この小説を書かせたのは、僕の裡なるエイトマンなのである。それでいいのだ。
著 者
〈1971年12月 「サイボーグ・ブルース」(早川書房)あとがき〉
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