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時空暴走 気まぐれバス   時空暴走 気まぐれバス
著者:平井和正

イラスト:泉谷あゆみ
定価600円
.book版:327KB、PDF版:1.06MB

 2001年1月に発表された、平井和正書き下ろし長編。その後ABDUCTIONシリーズへと発展し、本書は「WAYWARD BUS −気まぐれバス−(大改訂版)」として収録されている。
 慌てて飛び乗った古ぼけたバスは、過去からやってきたバスで……そこには女子高生時代の母親が乗っていた!? 美しく可愛い母親テルちゃんとの微妙な関係の中で、バスは時空を超え、北米の砂漠地帯に迷い込む。そこには、世界の命運を左右する秘密が隠されていた?!
 泉谷あゆみ先生によるe文庫オリジナルの描きおろしイラストも大注目!

|目次立ち読み


●目次
第一章 乗り合わせたのが不運?
第二章 宇宙人に誘拐された?
第三章 迷惑な砂漠の大サヴァイヴァル?
第四章 水占い棒が見つけた意外なもの?
第五章 金髪美女との嬉しい遭遇?(但し銃器所持こわもて)
第六章 綺麗なお姉さんとコーオペレイト(いったい何を?)
第七章 砂漠の洞窟で悪魔退治?
第八章 気まぐれバスが盗まれた?

あとがき 夢をもう一度


●立ち読み

第一章 乗り合わせたのが不運?

 五十メートル全力疾走して、バスに間に合った。雲を踏むような頼り無い気分になり、ああ、オレってショッペー、と少年は乗客の視線が集まってくる屈辱感で、顔が下を向いてしまった。
 顔を上げる勇気を取り戻すのに三秒かかった。バスの車掌、オレが全力疾走してくるのを見ていながら、ドアーを閉めようとしやがった。根性悪かと思ったが、その白い陶器の大皿みたいな顔を見ると、ただ物憂げなだけで、全然やる気がなかった。きっとオレの全力疾走の姿なんか見てもいなかったのだ。
 お蔭で少年は息があがった。鼠の心臓になった。哺乳類の一生涯のうちに心臓は十億回鼓動する。その点は象も鼠も同じだ。象はスロースローで鼠はクィッククィック。象は長生き、鼠が短命なのはそのせいだ。鼠は、あ、といってる間に十億回で命が終了する。
 だから少年はできるだけ全力疾走しないように心がけている。学校の体育をサボるのは健康によい。
 えっ、このバスはなんだ? と思ったのはバスががくんと揺れて走り出してからだ。息があがっているから、背中のリュックも下ろさず座席に崩れ落ちるのが精一杯、周りのことなんかに注意が行かない。オレってショッペーと思った時に初めて周りの視線が気になるのだ。
 これって、いつもオレが乗ってるバスと違うんじゃないか、と気づいたのは座席の感じが違っていたせいだ。バス全体がベンチシートでいやにクラシックなのだ。クッションもよれていてペシャンコでひどく座り心地が悪く、博物館にさっさと行けといいたいほど苔が生えていた。
 隣りにいるちっちゃい女の子がマジマジと少年を見つめていた。その視線が気に障った。チビスケのくせに茶髪で、いやに顔がほそくて、変に目の色が薄く子供のふっくら感がない。飢餓難民の子供みたいだと思ったのはそのせいだ。
 ちっとも可愛くない。目つきが意味ありげで、余計に可愛くない。すっごく興味を持っているのだが、それは変な生き物を発見した時のいやらしい好奇心って感じなのだ。上から下まで嘗めるように見る、好奇心のバケモンみたいなオバサンの目つきそっくりだ。
 だいたいこんな時刻に、四つか五つぐらいの女の子が一人で乗るか? もう午後六時を過ぎて、完全な夜になっている。乗客は数名だけ、数えもしないが、十人はいない。離れ小島同士みたいに他人と距離を置いて、ポツンポツンと坐っている。
 通路をはさんだ向かい側のベンチシートには女学生が坐っている。それが大正時代とまではいかないが、いやに昔風の女学生で、ヘアスタイルも制服も時代がかっていた。そう、この妙に昔風のバスとお揃いって感じだ。
 昔風の女学生だって、悪くないと思ったのは、結構美人だったからだ。高一か高二で、古風なセーラー服が妙に決まっている。お河童で、髪の毛の間から可愛い耳が覗いているのに気を惹かれた。
 ずっしり分厚い革鞄を膝の上に載せて、すんなりした手で押さえている。今時、こんな古風な通学用の革鞄なんて見たこともないぞ、と少年は心のなかで呟(つぶや)いていた。何なのだ、このバスは。
 あまり熱心に見ていたので、女学生は少年の注視に気づき、ちらっと見返してすぐに目を伏せてしまった。昔風の女学生は慎ましい、と少年は新鮮な驚きのショックを感じた。今時の女だったら、睨(にら)み返すか誘われることを前提にした目つきを見せる。
 女学生の背後を流れる夜景に目をやったとたん、ざわっと背中がチキンになった。羽根を毟(むし)られた鶏のぶつぶつした皮膚が腕にまで引っ越してきた。
 窓の外は赤っぽい電灯光が流れる商店街だ。赤っぽい? 今時の照明は赤っぽいなんてことはない。違和感というのは、たとえば教室だと思って足を踏み入れたら職員室だったという場違いの感じだ。その場違い感覚を強めたのは、するどい裸電球の光に照らされた八百屋の看板とその店先が視界を流れた瞬間だ。
 少年はいまだかって、裸電球で店先を照明している八百屋なんか見たことがなかった。だいたい今時、青果商でなくて八百屋の看板を掲げた店が商店街に存在するのか?
 とっくの昔に、商店街では個人商店が軒並み消えてなくなって、シャッターを閉め切ったまま毎年古びて行き、少年が物心ついた頃から、八百屋の店先などお目にかかった覚えは一度もないのだ。
 街並みが記憶とカンペキに食い違う。オレはひどい勘違いをして、バスの路線を間違えて乗ってしまったのではないか? そんなはずはないとわかっていても、少年はバスのベンチシートから腰を半分浮かせていた。
 混乱はすぐにおさまるものではないという気分が支配的だった。知らない間に路線が変更されて、見知らぬ場所を走っているというのでない限り。
 体がへんに頼り無くなり、嘘っぽい寒さを覚えていた。寒いはずはないのに体が冷えてきている。
 なんとも表現できない違和感が胸の中にどん、と居すわった大きな岩みたいにのさばっている。
 すぐに降りようとしないのは、その違和感によって体を束縛されているからかもしれない。停車ボタンを押す、という考えもどこか離れた場所をさまよっているようだ。
 だが、バスの車内のいたるところに存在するはずの、停車ボタンが見当たらなかった。あまりにも古すぎるので、停車ボタンは取り付けられていない。これって、バスの操車場で火災でも起こって、バスがみんな丸焼けになり、博物館に陳列されていた昔のバスが引っ張りだされたのではないか、と少年は本気で考え始めた。さもなければ到底説明などつかない。
 だいたいワンマンカーでない路線バスを、少年は見かけた覚えがない。車掌つきなのだ。車掌!
 心から愕然(がくぜん)として、少年はバスの扉の横手に、物憂げに佇(たたず)んでバスの動揺に身を揺らしている、真っ白なセトモノのお皿みたいな顔の女車掌を見た。実見したことはないが、話には聞いている。ワンマンカーの扉が自動になる前は、女車掌が乗客のために扉を開けしめしたという。
 観光バスのバスガイドの女の子しか見たことのない少年は、なぜそれに気づかなかったのか、と気分が萎(な)えた。驚く前に全力疾走が少年の注意力を奪ってしまったのだ。
 女車掌は何も関心を持たないで、バスの揺れに身をまかせている。バスストップにも興味がないようだ。バスはノンストップだし、バスを停めて乗り込んでくる乗客もない。
 じわじわと胸騒ぎが拡がってきた。動悸(どうき)がおさまってきたせいだ。これは異様な事態だと次第にわかってきたのである。しゃにむに降りようとしなかったのは、真向かいの通路をはさんだベンチシートの女学生が、ちらちらと視線を送ってくるためだ。
 女学生は少年に興味を抱いている。向こうも彼に対して違和感を持っているのだと察しがついた。オレのどこが怪しいと思ってるのか? ちょっと変、と思っているに違いないのだ。
 なにか見たような顔だ、と気づいた。だれか知っている人間に似ている。母親に似ているのだ。母親には三人の姉妹がいるから、従姉妹(いこ)に似ているといい換えてもよい。しかし、彼女は従姉妹ではないことは明らかだ。彼は親戚の若い女の子たちの顔はみんな知っている。
 つまり、母親に似た女学生は、彼の知るいかなる親類縁者の関係者でもないが、彼に興味を持ったところを見ると、やはり親類の一員かもしれない、と少年は思ったのだ。
 話しかけてみようとまでは思わなかった。どうせナンパと思われるにきまっている。彼は女学生の背後の窓ガラスに視線を移した。繁華街が流れて行く。だが、なんだか見慣れた光景とは異質だった。貧相なのだ。またしてもバスを乗り間違えた感覚が強く襲ってきた。絶対におかしい。見慣れたランドマークの大きなビルが見当たらない。
 思わず中腰になってしまい、乗客たちの注視を浴びた。京浜急行のガードをバスが潜(くぐ)ったのはたしかだが、そこは見慣れた中央駅前の光景ではない。彼があまり偏執的に見ているので、つられて女学生が背後を振り返ったが、怪訝(けげん)そうな顔をした。不審なことは発見しなかったらしい。
 またしても乗客たちの視線を浴びる羽目になり、少年は中腰になっていた腰をシートに落ち着けた。実に座り心地が悪い。直接シートのスプリングが尻に突き刺さってきそうだ。
 これって夢かもしれない、とその時初めて思った。尻は居心地が悪いが、これも夢の一部か。夢であるなら、この変な違和感は納得が行く。なんだかひどく暗い街並み、陰気な乗り心地の悪いクラシックな博物館物の路線バス。これは夢だ、と少年は結論した。
 目の前に坐っている女学生が母親と似ているのも夢の証拠だ。これは少年をまだ生む前の母親、女学生時代の母親なのだ。若い頃の母親はいつも美少女だったと口走って、彼を爆笑させた。若い頃の写真を見せようとする母親を、いつもせせら笑った。美少女時代の若尾文子や吉永小百合の写真を見るのと同じ滑稽(こっけい)さが付きまとう。元美少女が滑稽なのは、現在との落差が甚(はなは)だしすぎるゆえだ。
 母親似の女学生、話しかけてやろうか、と思いついた。どうせ夢の世界だ。昔の母親と会話するのも一興だ。
 いきなりテルちゃん、と母親の名前を呼びかけてやったら、さぞかしびっくりするだろう。どうせ夢だ。夢から覚めたって笑える。
 その時――無重力感覚が襲った。ふわっと身体が魂をその場に残して宙に浮く感覚、実に不愉快な感覚だった。眼前の女学生の瞳が倍ぐらい大きくなり、身体を堅くしたから、同じ不快感に襲われたことは間違いない。乗客全員が反応し、ひゃっと軽い悲鳴を漏(も)らす女客もいた。
 崖から落ちた、咄嗟(とっさ)に考えたのはそれだった。この無重力感覚は足を踏み外して高い所から落ちた感覚だ。路線バスぐるみ、岸壁から海へ落ちたのだ。
 しかし、路線バスは海へ落ちるような場所を走りはしない。道路は岸壁に沿っていないからだ。その考えは、遠いところから長い時間をかけてやってきたようだった。意識が飛んでしまったからだった。
 意識というのは不可解なものだ。それが消える瞬間を記憶できる人間は存在しない。記憶の主体である意識は、それが消滅することを認識できないからではないか。そんな高踏的な思考を、少年が巡らしたはずはない。とにかく途中経過はすべてカットされたのだ。気がついてみたら、とんでもないことになっていた。そんなありきたりの表現しか思いつかなかったのはたしかだ。
 これは夢の続きだった。夢ならば、どんなに変なことが起こっても納得が行くからだ。たとえ尻の下のシートが、不快なバネの存在を直接的に感じさせるとしても……

 強い日中の陽光が充満していた。窓の外は黄色かった。
 黄疸(おうだん)みたいな黄色さではない。茶褐色なのだが、やはり黄色いのだ。それがもたらす違和感の甚だしさ異常さは、理性が吹き飛ぶほどの底力があった。
 狂っている。物凄(ものすご)く狂っている。大声で叫びだしたくなった。腹の底からぐうっと突き上げてくるものがあるのだ。
 車内がざわめくよりも早く、少年は真っ先にバスの扉を手動でこじ開け、外に飛び出していた。衝動的で熟慮するよりは行動が先に立つのだ。たとえ外部が真空であっても、構わずに飛び出したに違いなかった。
 黄色い大地は、砂地になっておりスニーカーの下でポクポク崩れた。その頼り無さは、そのまま彼の心そのものだった。
「わあっ。いったいこれってなんなんだよおっ」
 思わず声になって溢れ出した。他にどのような言葉もあり得なかった。それはたとえば、真夜中の部屋で突如、無重力感覚を味わったとたん、窓の外が真っ昼間になり、強い日差しに照らされ、外へ飛びだすとまっ黄色な大地が果てしもなく拡がっている、というのと同じで。
 だったら、いったいこれはなんなんだよおっ、と叫ぶしかあるまい。振り返ると、砂漠の真っ只中に時代色のついた路線バスが、UFOに誘拐された大昔の航空機みたいにうずくまっており、それはそのまま古色蒼然(こしょくそうぜん)とした映画の一シーンだった。「未知との遭遇」というタイトルではなかったか?
 古びた路線バスの車窓からは、乗客たちが茫然(ぼうぜん)とした顔を覗かせていた。その驚きの顔の間抜けさといったらなかった。少年は自分のことは棚に上げて、彼らの愚かな驚きの表情に憎悪さえ覚えた。
「みんな出てこいよおっ。なにやってんだっ」
 少年は両腕を振り回してわめき散らした。その愚かしい間抜けな驚愕(きょうがく)ぶりに腹が立って堪(たま)らなかった。
 乗客たちがようやく動きだし、路線バスのステップから次々に降りてきた。その動作は、バスストップで降りる動作と少しも変わらない、不細工で不器用なもので、ますますむかついた。
 とろとろしないで、早く降りやがれと怒鳴り散らしたかった。その感情は不条理なものかもしれないが、間抜け面を見ていると腹が立つのだから仕方がなかった。
 最初に降り立ったのは、年の頃がわからないおじさんだった。見ようによっては四十代にも見えるが、頭髪に白髪がない。職業だって見当がつかない。眼鏡をかけていて、動作は慎重だが、年寄り臭さはない。
「きみはどう思う、少年?」
 そんな話しかけかたをするおじさんには逢ったことがない。驚いてはいるが、狐に摘(つま)まれたという茫然自失の顔つきではないのが気に入った。
「UFOに攫(さら)われたと思うかい?」
 おじさんが「未知との遭遇」の映画を観たことはたしかだ。だれだってそう直感するはずだ。
「わかんないよ、そんなの。これって次元スリップじゃないの?」
「ほおお。最近のヤングは、テレビアニメでSFに慣れてるからね。異次元断層に落ちたとか」
「UFOに誘拐されたんなら、だれかUFOが飛んでるのを見てるんじゃない? おじさん見た?」
「見なかった。第三種接近遭遇なら、UFOをだれかが見てるはずだ。バスのドライバーとかが」
 少年とおじさんが話している間にも、乗客たちは羊の群れのようにぞろぞろと路線バスを降りてきた。女学生が降りて、ちびの女の子が降りると、路線バスのドライバー、女車掌が最後にステップを踏み、地上の人になった。変に黄色い砂地のような大地の上に。

 乗客乗務員、全員が茫然として、地平線の彼方まで平坦な、黄色い砂漠を見つめることになった。
 草木は一本もない。全部均質な砂地みたいな土壌だ。それが果てしもなく、どこまでも拡がっている。こんな土地が、日本には存在しないことは、だれでもわかる。
「しかし、地球上のどこかだろうと思うぞ。大気があって、ちゃんとわれわれが呼吸していられる限りは。だれか、ラジオとかケイタイとか持ってる人はいませんか?」
 おじさんがぼんやりと立ち尽くしている乗客たちの顔を見ながら尋ねる。乗客は多くはない。でかいボストンバッグを後生大事に膝の上に抱えていた、中年男の乗客、お召しを着た、若奥様というよりは、粋な着こなしで水商売、それも旅館とか料亭の女将(おかみ)といった女。そして女学生、ちいさな女の子。そして最後の一人は、サングラスをかけたパンチパーマの男。別にパンチパーマだからといって、差別することはないが、百人中九十九人まで電車の座席の隣が空いていても、坐りたがらないだろう。本能的に避けようとする人間の性(さが)を非難はできないはずだ。
 寂、として声がない。ショック症状というものだろう。頭が混乱、というよりは思考停止により空白化する。
「持ってない? きみは、少年?」
「持ってない。MDだけ。バス、ラジオついてたかな?」
「ついてない。ものすごく古いバスだよ。三十年以上前の年代物だな」
「そんな古いバスがなんで走ってたんだろ?」
 その問いを発した少年の胸板に、おじさんはいきなり右の人指し指を突きつけた。
「それだよ。わたしもそれを疑ってた。三十年前というと、いまや博物館級だよな。バス会社の記念式典かなにかの行事で走らせるというならともかく……いや、そんな古物、車検通ってないと思うぞ。それに気づいたか? バスに乗ってから、どこを走ってるんだろう……そう思わなかったか、少年?」
「見覚えがないし、違う路線バスに乗っちゃったって感じだし。それにバスの走ってる街並み、変に田舎(いなか)臭いっていうか」
「そう。その通りだ。ラジオを持ってたとしたら、きっと変なことに気づくだろう。一度も聴いたことのない古い歌謡曲が流れてきたり……」
 えーっ、と少年がいった。それってやっぱり映画にあったじゃん? バック・トゥ・ザ・フューチャーとかいったっけ。車で過去の世界へ行っっちゃう話? タイムトリップだよな。
「おいおい……」
 おじさんは呟き、掌で目の上に庇(ひさし)を造って、頭上を見上げた。太陽光線は真夏でもこれほど激烈なものではなかった。じっとしているだけで、汗が粒になって噴き出してくるのだ。
「ここは本物の砂漠だな。日本には砂漠なんか存在しないし、精々鳥取の砂丘ぐらいだ、砂漠に似ている場所は。だから、本物の砂漠に、今われわれはなんらかの理由で移動してしまったわけだ。すると、この先はサヴァイヴァルということになる。どうやって水と食料を手に入れて、生き延びるかだ」
「えっ、マジい?」
 少年はクレームをつけるようにいったが、なんの実感もなかった。まさかこんなことが自分の身に起きるとは。でも、その感覚は旅客機の墜落に遭遇した乗客と同じなのかもしれない。
「水とか食料とか、コンビニを探せば」
 少年は自分の言葉が本気なのかジョークなのか、区別がつかなかった。
「そいつはいい考えだ。バスに乗ってコンビニ探し。今年の流行語大賞を貰えるぞ、少年」
 あのう、といって、少年の袖を引っ張るので振り向くと、女学生がとても生真面目な顔で立っていた。その顔はやっぱり母親のそれと重なった。昔は美少女だったという母親のジョーク、爆笑したよな。
「助けを呼ぶにはどうしたらいいんでしょう?」
 とても戸惑っている顔で女学生が尋ねた。
「さっきから、話がよくわからないのですけど、おふたりともここがどこか……ご存じなんですか?」
 声の質まで、母親のテルちゃんに似ていた。
「いや、わかんない。でも、このおじさんと話してたら、地球上のどこかの場所だって」
「それは聞きましたけど、なぜおふたりともあまり驚いてないんですか? これが起こることをあらかじめわかっていたんですか?」
「そんな……わかってたら、こんなバスに乗ってないって」
「それはそう思いますけど。でも、おふたりのお話になっていることが、なぜか理解できないんです。アメリカ人が日本語で会話しているように聞こえるんです……」
「少年、この女学生さんの話し方、不思議だと思わないか? お前さんの知り合いの女高生、こんなきちんとした話し方するか?」
 おじさんの視線を浴びて、女学生は顔をあからめた。あ、こんなヤツいないよな、と少年は思った。今の女高生、みんなとてつもなく図々しいヤツラばかりなのだ。
「いない……だらしないよ、今時の女どもって。昔の女子高生だったら違うだろうけど」
「女学生さん。あなた何年生?」
 女学生はますます紅くなり、それでも懸命におじさんを見返した。
「二年生です……」
「何年生まれ?」
「昭和三十二年です」
「昭和三十二年って?」
 少年はつい声を高くした。西暦だと一九五七年生まれだ。冗談じゃない、もう四十過ぎのおばさんじゃないか。
「やっぱり。バスが古いわけだ。やっぱり三十年前だよ。われわれはタイム・スリップしたバスに乗ってしまったんだ」
 おじさんはなぜか少しも慌(あわ)てていなかった。こんなのはやっぱりおかしい、と彼は思った。自分がタイム・スリップして三十年前の世界に流れついてしまったら、だれだって困惑の限りを尽くす。
「名前なんていうの?」
 少年は、気にかかっていたことを尋(き)いた。母親は彼の覚えている限り、生年月日は一九五七年十月十日である。
相田照美(あいてるみ)です……」
 やっぱり、と彼は叫ばなかった。テルちゃんだ。母親の旧姓は相田であることを知っている。テルちゃん、と呼んだら、彼女どう反応するだろう。
「きみさ、テルちゃんって親しい人たちに呼ばれない?」
 少女は強く瞬きをした。その質問は心に響くものがあったのだ。さっきから、バスの車中で、彼を見ていたのはそれと関係がある。
「呼ばれます……どうしてですか?」
「テルちゃんって、呼んでいい?」
 遭(あ)ったばかりの男の子に、テルちゃんと馴れ馴れしく呼ばれることには、抵抗があるはずだ。
「それはちょっと……」
「テルちゃんの誕生日は酉年(とりどし)の昭和三十二年十月十日。体育の日……」
「なぜ、それを知ってるんですか?」
「だって、オレの母親、かあちゃんの誕生日だから。オレ、かあちゃんって呼ばないんだ。テルちゃんって呼ぶんだ。親しい人間の間での呼び方は、みんなテルちゃんだし」
 少女は困り、唇を噛(か)んで考えていた。見ず知らずの同年令の少年に親しげにテルちゃんと呼ばれるのも困るが、相手の顔に何かしら覚えがあるという感覚にも困っているのだ。
「テルちゃんは、オレの母上さまだよ。間違いなく」
 ついにいってしまった。得体の知れない快感があった。自分の母親が、今のオレと同年令だなんて、どんな気分かと問われたら、勝利感とでもいう他はなかった。母親をガールフレンドにすることだってできるではないか。
「少年、本当か? その女学生さん、お前さんのご母堂か?」
 おじさんにまじまじと顔を覗き込まれて、女学生テルちゃんはとうとう顔を背けてしまった。
「テルちゃんの両親の名前わかってるのか?」
「オレの祖父と祖母だから。おじいちゃんは相田健美、おばあちゃんは照子、だから両親の名前を合わせて、照美というんだ。安直だけど」
 話の途中から、女学生テルちゃんは好奇心に負けて、背けていた顔を元の位置に戻していた。
「なんであなたはそんなことまで知っているんですか?」
「だって、オレはテルちゃんの子供だから。オレ、テルちゃんが二十五歳の時に生まれたんだぞ。親父の名前は野々村淳、覚えておいてよ」
「おい、ちょっと待て、少年。そんなことテルちゃんに教えると、ややこしいタイム・パラドックスちゅうのが生まれるんだぞ」
 おじさんが慌てて警告を与えた。
「なにそれ? どうせここまで喋(しゃべ)っちゃったんだし。テルちゃんってあまりものにこだわらない性質だから。忘れっぽいし、暢気(のんき)だし。子供にテルちゃんって呼ばれてもあいよ、と答えるくらいで、結構、冗談きついし」
「それはそうかもしれんが、少年、彼女はお前の実の母親だぞ。彼女をナンパするのだけはやめろよ。歴史が狂うぞ」
「だって、テルちゃんはまだオヤジに逢う前だし、いいじゃん?」
「よかねえよ。お前の妨害によって、テルちゃんがオヤジに逢えなくなったりすれば、お前はこの世に生まれてこないじゃないか。そうすると、テルちゃんはお前に逢うこともないから、妨害されずにオヤジに逢う。そうすると、お前がまた生まれる……どうだ、これがタイム・パラドックスというもんだ」
「いいよ、そんな面倒くさいのは。だいたいオレが、同じ年齢の母親に逢うなんて、ありえないだろ? それが逢ってるんだから、何をしようがオレの勝手じゃないか」
「メチャクチャいうんじゃねえよ。とにかくテルちゃんに手出しは禁止だ。お前、彼女いないのか?」
「ひとりいる。生意気な女でさ。テルちゃんのほうがずっといいや」
「あのう。さっきからお話を聴いていて、よくわからないのですけど、おふたりは未来から来られた……そう考えてもよろしいのですか?」
 テルちゃんがおずおずといった。そんな馬鹿げたことを口にして笑い飛ばされることを危惧(きぐ)しているのだ。
「おい、少年。お前のテルちゃん、SFセンスがあるじゃないか。昔の人は未来人なんていわないと思うぞ」
「だって、テルちゃん、結構SF読んでるよ。昔からファンだったんじゃないかな」
 ふたりは期待の目をテルちゃんに注いだ。テルちゃんはだいぶ両名の翔(と)んだ話に適応してきたらしい。もう目を背けたりしなかった。もともと少年に対しては親近感を覚えていたようだ。
「未来からいらしたという証拠、なにかあります?」
 おお、とおじさんがいった。感動がこもっていた。
「その質問は凄い。ツボを押さえとるぞ。テルちゃんが昔からSFファンだったというのは間違いないぞ」
「今の時代には、絶対に存在しないというもの、見せて戴けます?」
 テルちゃんは、そんなお世辞ぐらいでは誤魔化されないぞ、という決意を新たに質問を重ねた。
「少年、お前のママのテルちゃん、しっかり者ではないか。その息子のお前ならばもっとしっかりせんかい」
「わかったよ、うるせえな」
 少年は背中のリュックを降ろそうとして、背中に一面の大汗を掻(か)いていることに気づいた。猛烈な砂漠の日差しの中だ。熱射病になっても当然なのだ。
「ひえいっ。ここ、猛烈に暑いじゃん。バスの中に入らないと、熱射病になっちまうよ」
「誤魔化さないで!」
 テルちゃんの追及は手厳しい。
「わーったよ。テルちゃんてば、きついんだからあ」
 少年はリュックを片手に提げたまま、バスに向かって走り出した。突然、意識の表面に浮上した暑さは堪えがたい。
「逃げないでっ」
 叱咤(しった)する女学生に、バスのステップで振り向いた少年があかんべ、をして見せた。いつも母親のテルちゃんとやっているのだ。女学生は憤然として追いかけて行った。
 バスの内部は、暑さが明白にダウンした。湿度が低いので、日陰に入るとみるみる涼しくなる。少年は汗も拭かず、リュックからMDを引っ張り出した。
「それ、何ですか?」
「MD……MDプレイヤー。知らないよね。ウォークマンよりずっと新しいんだから。ウォークマン、知ってる?」
 女学生は熱心に、銀色に光るMDのケースを眺めていた。少年はイヤフォンをテルちゃんに差しだす。
「イヤフォンを耳に入れるの」
「イヤフォン? こんなもの耳に入りませんよ」
「だからあ、こうやって耳の穴に差し込むんだよ。挿入するの。挿入って言葉わかる、テルちゃん?」
「そのテルちゃんというの、やめてください。あなたに親しくされる理由はありませんから」
 女学生がきっぱりいう。今時の女子高生と違って、きちんと見ず知らずの男に対応するのが気持ちよい。
「悪い?」
「お行儀が悪いです。あなたがたとえ未来のあたしの子供だとしても……馴れ馴れしい口をきかれたくありません」
「他人行儀なこというなよ、テルちゃん。今朝なんか、家を出掛けになんといった? 母さんのパンツ、隠したでしょだって。冗談じゃねえよ。四十過ぎのおばさんのパンツ、だれが隠すかって」
「いやっ。不潔なこといわないでくださいっ。あなた、下品です。軽蔑(けいべつ)しますからっ」
「下品なのはウチのテルちゃん。おばさんになるとどうしてあんなに、平気で破廉恥(はれんち)になるのかな? おまえ、おばさんになっても、ゼッタイあんなふうになるなよな」
 少年はリュックの中を掻(か)き回した。MDより先にエビアンを見つけた。道理で重いと思っていた。エビアンのでかいペットボトルが入っていたのを忘れていたのだ。エビアンの下にMDが隠れていた。
「水だっ。儲(もう)けっ」
 MDのことなど忘れて、少年はエビアンを飲んだ。今更のように喉が渇いていた。はっと気がつくと、女学生が欲しそうに見ていた。
「飲む?」
 躊躇(ためら)いがちに女学生が頷(うなず)いた。口飲みされたエビアン、間接キッスになると考えていたに違いない。
「いいじゃねえか。間接キッスでも。親子なんだし」
「じゃ、ください」
 女学生は躊躇いがちに、手渡されたエビアンを飲んだ。ペットボトルを口飲みにするのは、ちょっと上を向かないとできないのだが、そうすると喉の線が露(あらわ)になって、女の子はセクシーになる。
「何を見ているんですか」
 責められた。少年の視線に反発していた。
「テルちゃん、おまえはウチのテルちゃんより美人だ」
「当たり前じゃないですか。あたしは十七歳です。お宅のテルちゃんは四十過ぎだといったじゃないですか」
 声が怒っていた。四十過ぎの自分を貶(おとし)められたので、腹が立ったのかも知れなかった。
「そりゃそうなんだけど……これがMD」
 電源をONにして、動かすと、イヤフォンからかすかにミュージックが響いて、少女を驚かせた。
「この歌手、誰ですか?」
 イヤフォンを耳孔(じこう)に差し込んだ女学生が不思議そうにいった。
「マライヤ・キャリー」
「知らないわ……」
「そりゃそうだ。テルちゃんの時代には有名人じゃないし」
「すごく音がいいですね。あなたの時代には、MD? こういうのが普通に使われているんですか?」
「そうです。どう、オレのいうこと、信じる気持ちになった?」
「その水の瓶、透明でとても薄くて、軽いんですね。エビアンって、カシャ水源でとれた水で、フランスから輸入しているんですか?」
「あ、そうだっけ?」
 ペットボトルの表示なんか読んだことがない少年は改めて、表記を読んだ。カシャ水源だ。原産国フランスとある。
「ナチュラルミネラルウォーターというんですか? あなたは水道の水じゃなくて、いつも輸入された天然水を飲んでいるんですね」
「あ、そうなの。水道の水、汚染されていて、身体に悪いし。浄化装置を通してもまずくて飲む気しない。ウチのテルちゃんもそうだよ」
「まだ他にもいろいろ持ってるんですか? リュックの中、見せて貰ってもいいですか?」
「だめ。プライヴァシーだから。女の子には見せられないの」
「でも、あなたはあたしのことを未来のお母さんだといってるじゃないですか。だったら、あたしは親だから、リュックの中を見る権利があるはずですよ」
「そんな理屈あるかよ。いくら未来の親でもだめ」
「いいから見せて。あっ、厭(いや)らしい本! 女の人の裸の本なんか持ってる!」
「あっ、見るな! だめだっていってんだろ!」
「不潔……あなたみたいな男の子、絶対に産みたくないわ! 大きくなったら痴漢(ちかん)になったりするんだから!」
「なんだよ。ただの写真集じゃねえかよ。そりゃ、ヌードだけど、別にウラボンでもなんでもないんだから」
「絶対にだめ! そんな不潔な裸の女の写真集なんか持ち歩いてる子、あたし絶対に産まないから!」
「産まないって、現にもう生まれちゃってるんだから、手遅れなんだよ!」
「あたし、あなたみたいな不潔な子、絶対自分の子供だって認めないから! そんな汚らしいもの、すぐに捨てなさい! でないと絶交よ!」
「親子の間で絶交なんてねえよ。勘当するといえよ」
「じゃ、勘当するわよ! もう親でもないし、子でもないから!」

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