e文庫


狼の肖像   狼の肖像
著者:中島 梓

イラスト:中川 望
定価500円
.book版:186KB、PDF版:543KB

 人気作家・栗本薫の別名で知られる評論家・中島梓による平井和正論三部作が、二十数年ぶりに電子出版で復活。
 『情念の熔岩流――狼男の魅力』(早稲田文学、1976.9)、『ダイナミズムの系譜 平井和正の展開と転回」(別冊新評 平井和正・豊田有恒集、1978.10)、『狼の肖像―平井和正論―』(奇想天外、1979.1-6)を完全掲載。
 この数年後、『グイン・サーガ』を発表することになる著者からの、平井和正への熱いメッセージ!

|目次立ち読み


●目次
  情念の熔岩流――狼男の魅力
  ダイナミズムの系譜 平井和正の展開と転回
  『狼の肖像』―平井和正論―
    その1 虎は目覚める
    その2 サイボーグは目覚めない
    その3 二人の犬神明
    その4 狼は目覚めたか
    その5 自意識過剰のスーパーマン


●立ち読み

ダイナミズムの系譜 平井和正の展開と転回


          1

 平井和正について書こうと思うのだが、そのためにはまず、私は私にとっての平井和正――平井和正との長い、もちろん読者としての私の一方的なかかわりあいからはじめなければならない。
《平井和正》――その名前は、長いこと私の中で、筒井康隆とも星新一とも小松左京ともまたちがう、他と比較のしようのない、一種独特な親愛感と、そして好ましさとを、ただちに喚起するような、そんな位置を占めつづけてきた。
 それはもちろん、彼のあの暴力的なほどのエネルギーを、直接に読むものの胸につたえてくる作品群がもたらすものでもあっただろうし、また、少年マンガがようやく全盛期をむかえるのとまったく同じ時期に、マンガからSFへと足をふみいれていったという、私じしんの事情によるものでもあるだろう。平井和正が存在することを知るよりも早く、私の中には、「エイトマン」や「エリート」や「幻魔大戦」が存在していた。
 だから、「レオノーラ」や「虎は目覚める」との出会いは私にとっては、「エイトマン」の作者の小説との出会いにほかならなかった。それが、たとえば小松左京や星新一との(もちろん、一方的な)最初の出会い(ファースト・コンタクト)とひどくちがっていたのは、ひたすら、それが、すでに私の世界に存在していて、とても親しいものであったものの、「再発見」――認識をあらためる、というかたちでやってきた、ということだろうと思う。
 これは、はじめから、ひどく心をあたためるものだった。というのは、もちろん、それら他の「出会い」は刺激的で、衝撃的で、しかもどんどん小学校から中学への、いままさにひらいたばかりの子どもの世界を爆発的に広げてくれる、そんなものだったのだが、しかしまたそれだからこそ、一方で、そのあまりに速く拡大してゆく未知の大陸(テラ・インコグニタ)に、初心者の冒険家は、いくぶん畏れを抱いていなかった、とは云えないからだ。
 それらの巨大で圧倒的な未知のさなかで、「レオノーラ」を書いた平井和正とは「あの『エイトマン』の」平井和正であるという、べつだん何のふしぎもない事実が、十二か三の子どもにとって、なぜそれほど感動的で、しかも大発見のように感じられたのか――このことをぬきにしては、私の平井和正への特別な執着をうまく説明することはできないだろう。
 それはいわば、「私の」作家、という、そんな意識をよびさます事実だったのだ。少々私ごとが続いてしまうが、私がこれまでに、作家に対してファン・レターを書いたことは一度しかなく、それは結局出さぬままに机の奥にしまわれてしまったのだが、そのあてさきは「平井和正様」だった。
 必ず返事をくれるらしい、ということもあるけれども、彼にだけは、手紙を書いてもいいのだ、というこの安心感――それが、私にとって、長いこと、「平井和正」という作家の核心にほかならなかったような気がする。
 そしてやがて、「ハヤカワ日本SFシリーズ」の第14巻に、彼の最初の長編「メガロポリスの虎」が入ったときにも、私はいわば、その現場にいるものとして、その本を待つことができた。
 なんという、めちゃくちゃで、ヘタで、荒々しくて、そのくせ圧倒的に心をとらえてやまない小説なのだろう――というそのときの私の驚き。それは、失礼な云いかたにきこえるかもしれないが、小説とははじめから「うまい」ものであり、読者は外側から作家の精神の動きをただ感嘆してながめて、それを追いかけてゆくだけの「従」の存在でしかありえないのだ、と信じこんでいた予どもにとって、「ヘタな小説家」というものもこの世に存在するのだ、という認識をもたらし、同時にそのへタな小説、子どもにさえわかるヘタな小説がこれほどおもしろい、ということへのいぶかしさと、「これは何なのだろう」という不安をかきたてた。
 考えてみると私がいまこんなふうにして、「小説とは何だろう」「SFとは何だろう」ということを書きつづけているきっかけになったのは、この「メガロポリスの虎」へのかつて知らなかった傾斜と不安、だったような気さえするのだ。
 それは、そのときの私にはそう云ってみるすべもなかったけれども、たぶん、「小説」の形式ではなく、いきなりむきだしにされた「小説」の源そのものにふれ、形式を通りぬけてやにわに「小説」の形をなさない本体にふれたときのおどろきと讃嘆にちがいなかった。
 それ以来、平井和正の「小説」は、いつでも私にとっては、「小説以外のもの」「小説以上のもの」に、思われてしかたがなかった。そしてまた、平井和正も、私にとっては、単なる「作家」以上のもの、あえて云うならば、もっと読者の心の内側に近くいるもの、と感じられてきた。
 実は私は平井和正を論ずるのはこれがはじめてではなく、二年前にもいちど彼の小説について書いているのだが、そのとき私は、「彼の小説は決してうまいとはいえない。正直いってヘタかもしれない。だが、どんなにうまい作家よりももっとずっと本質的な何かが感じられるのだ」という意味のことを書いた。
 この考えは、いまでは少し変わってきている。どう変わったか、といえば、それは、平井和正は小説が「ヘタ」なのではなくて、たぶん彼が書くものが他の「うまい」作家のものとあまりにかけはなれているために、私たちはそれをこれまでの小説の尺度ではかることができないのだろう、という点でだ。
 だが、それについてはもっとあとで云うとして、とにかく、「メガロポリスの虎」にはじまり、いまのところ「ウルフガイ・イン・ソドム」まで、私がたぶん、最も熱狂的に「待って」いた作家とは平井和正であったはずだ。
 そしてまた、そこへいたる彼の道のりは、私にとって、きわめて興味ぶかいいくつかの展開を含んでいた。結論から先に云ってしまえば、いまの私の考える「作家・平井和正」の本質とは、ほかならぬこの展開と転回点との多さ――そしてその極端さ、そのものなのである。
 だがもちろん、そうとだけ云ってすべてを釈明したつもりになるわけにはいかない。むしろなぜ、そういう作家であることが、平井和正にとって不可欠であったのか、そしてそれはどのような意味をもつのか――そう、考えてゆくことが、平井和正、それもいまの平井和正を論じるためにはいちばんよいことだろう。それゆえ、私はまず、「平井和正はダイナミズムの作家である」という規定から、今回の平井和正論をスタートさせたいと思うのである。
(続きは製品版でどうぞ)



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